タイの地図はコチラ
 
旅人:INSPi
    (杉田篤史・奥村伸二・大倉智之・北剛彦・塚田陽・渡邊崇文)

旅日記担当:久保有輝(番組担当放送作家)

「津波が全てを奪った。それでも僕達は生きていくんだ。」編

     
 

「僕達日本人は、本当に幸せなのだろうか…。」

サワディークラッ!(タイ語で、こんにちは!)
『YAJIKITA ON THE ROAD』担当、放送作家の久保有輝です。

久しぶりに海外への旅に出たYAJIKITA。旅人のINSPiに代わって、彼らに同行した僕が、
この旅日記を担当することになりました。
INSPiのタイでの表情も含め、客観的に旅の様子や感じた事をお伝えして行こうと思っています。

実はね…、今回の旅は、出発の何ヶ月も前から準備が始まっていて、いつものスタッフ以外にもたくさんのスタッフが加わって、毎週この旅の為だけの特別会議も開かれて、そんな一大プロジェクトだったんだよね。
目的は、『INSPiがタイの人々と文化交流をすること』。
日本のアカペラコーラスグループの中心的存在でもある、INSPi。

「歌を通じて、タイの人々と仲良くなりたい…。」

今回の企画は、そんな彼らの熱い想いからはじまったんだ…。
日本の文化を、日本人の代表として、タイの人々に伝えるメッセンジャー。
それは同時に、タイの文化やタイの人々の心を受け取って、日本人に伝えるメッセンジャーでもあったんだ…。

1年8ヶ月前の、2004年12月26日。
インドネシアのスマトラ島沖で発生した大地震。その地震は大きな津波を発生させ、インド洋に面した国々を襲った。

タイでも、リゾート地として有名なプーケットやピピ島、クラビなどの西海岸一帯を津波が襲い、
タイだけで5400人もの方が亡くなり、他にもたくさんの行方不明者を出すことになってしまった。

街になだれ込む大量の水と逃げ惑う人達の姿。そして瓦礫の山と大切な人を必死で探す人達の姿。
そんなテレビから流れる真実…、みんなも覚えているよね。観光で訪れていた日本の方もたくさん犠牲になってしまった。
ピピ島にお父さんとお母さんと弟さんと家族旅行に訪れていて、ただ一人残されてしまった、
あの遼平君は頑張っているのだろうか…。

INSPiのみんなは、去年、地震の震源地に近いインドネシアを訪れて文化交流を行った。
残念ながらYAJIKITAは同行できなかったけど大成功だったようだ。インドネシア同様、大きな津波の被害にあったタイ。
文化交流第2弾の地は、そのタイに決まった。そして、この旅の第一歩がはじまったんだ…。

INSPiとの旅は、タイのパンガー県にあるカオラックからはじまった。

プーケット国際空港から、車でわずか1時間弱。プーケット島から橋を渡って北に進む。すると小さな町が現れる。
そんな海沿いの町が、カオラック。世界的に有名なダイビングスポット、シミラン諸島やスリン諸島にも近いことから、
ダイバー達の間では、それらのスポットへの拠点として密かに愛されていた街である。

そんなことから、最近では一大リゾート地計画に向けて、リゾートホテルが次々に建設、
ストリートでも観光客目当ての店がどんどんオープンして賑わいはじめていた。そんな矢先に津波がやってきた。

タイの中で、特に津波の被害が大きかったのが、このカオラック。10mにもなる大津波が押し寄せ、海沿いのホテルも、
街の家々も、そしてここに暮らす人々の思い出も、全て飲み込んだ。
タイ全体の津波の死者は、今年6月の時点で5395人。そのうちの4224人がカオラックのある、
パンガー県に集中している。

プーケットに宿を取った我々は、まず津波の爪跡を探したのだが、これと言ったものは見付からなかった。
観光地プーケットは、いち早く復興が進み津波対策も万全となった。津波前より、
さらに美しく安全な街へと変わったのである。そのプーケットから北へ進み、パンガー県に入る。
カオラックが近付いてくる。すると、プーケットとは違う光景が飛び込んできた。

まずINSPiが立ち寄った、カオラックのとある場所。 タイ警察の警備艇が放置されている。
しかし辺りを見回しても海は見えない。ここは海から1.5kmも内陸に入った場所。

そう…、この船は海岸から1.5kmもの距離を津波で流されてきたのである。
その1.5km間には、リゾートホテルも、街の家々も、メインストリートもあった。
カオラックの街の人々に、話を聞いてみることにした。

何人かに話を聞いたのだが、その時の様子を、
みんな真剣に答えてくれた。
本当は思い出したくないことなのだろうけど…。

あるお母さんに伺った話を、簡単にまとめてみるね。

津波後、閑散としてしまったカオラックの中心地

津波のときの様子を話してくれたカオラックのお母さん
「あの時私は、仕事をしている最中だったの。
家族で工場をやっていたんだけど、ちょうど海の方に
出掛けていた兄が、叫びながら戻ってきたの。

『台風が来たぞ! 早く逃げろ!』って。
私は空を見上げてしまったわ。だって空には、お日様が
サンサンと輝いていて、風もなくて、
とってもいいお天気だったんだもの。

でも兄は、『裏山に逃げろ! 早くしろ!』…って
叫びながら走ってくるの。
すると兄の後ろから10m位の水の壁が迫ってくるのが
見えたの。 私はビックリして小さな息子を抱っこして
全速力で走ったわ。

でも私のすぐ後ろでは、家や車がどんどん飲み込まれていった。そしてすぐ後ろを一緒に走って逃げた、私の妹も…。

水が引いた後、すぐに山を降りてみたの。
そこには、瓦礫の山と、もう一緒に笑う事のできない
街の仲間達が…。それ以外は何もなかった…。」

お母さんが走って逃げた裏山
話し終えると、お母さんは、一瞬寂しそうに遠くを見つめた。
でも、お母さんの見つめたその視線の先には、また新たにリゾートホテルの建設が進んでいる。
このカオラックでも、着々と復興は進んでいるんだなぁ…。
INSPiの、タイでの文化交流のスタートは、カオラックの「バーンナムケム学校」。
真っ白で真新しい校舎にビックリしたが、この学校も津波で全て流されてしまい、立て直されたばかりだった。

INSPiの到着を何日も心待ちにしていたのか、休み時間になった途端、子供達が彼らの元に駆け寄ってきた。
まぁ〜、みんな、明るい、明るい!

ペンを持って来て、自分の名前を手のひらに日本語で
書くように迫ってきた。

INSPiも笑顔でその要求に応え、子供達の名前を聞き取っては、カタカナで手のひらに書いてあげている。
そして、かたことのタイ語で、子供達との会話を
楽しんでいた。

実は彼ら…、旅に出る前から一生懸命タイ語を
マスターしていたのだった。タイ語は発音が難しくて、
単純にカタカナにして覚えればいいというものでもない。

カオラックに向かうバスの中でも、覚えてきたタイ語が、
実際にタイの子供達に通じるのか、タイ人の
コーディネーターにジャッジを求めていたっけね…。

バーンナムケム学校の
タウィ・チップラサーン理事長と一緒に
そんな屈託の無い子供達の笑顔を見ていると、ここが
津波の被害にあった場所だと言うのを忘れてしまいそうだ。

でも「バーンナムケム学校」のタウィ・チップラサーン
理事長は、こんな現状を教えてくれた。

「この学校があるカオラックのナムケム村では、
津波前には1700世帯が暮らしていた。

でも今では、たった175世帯。10分の1になってしまった。
それに、この学校の生徒も30人が亡くなった。
他にも親を亡くした生徒は62人。その中の17人は
両親共に亡くなった。

でも、両親が亡くなってしまっても、孤児院に入った子供はいないんだ。親戚や近所の方が、家族として受け入れて、
みんなこの街で暮らしているんだよ。」
親戚ならまだしも、近所の方が…?
でも、それは珍しいことではないらしい。

タイの人達はみんな、近くに困っている人がいたら助けずにはいられない性格なのだ。
困っている人がいたら助ける。
そうすれば、もし自分が困っている時には、必ず帰ってくるものだと思っているから…。

タイの人達の優しさを感じた。そして、この明るい笑顔の子供達も、辛い過去を背負って生きているのだと感じた…。
さぁ、日本で言うと小学校5年生の教室を借りて、文化交流が始まった。

教室に入ったINSPiの6人は、タイの「ぞうさんのうた」をタイ語で歌い始めた。
(日本の「ぞうさんのうた」とは違うのだけれど、ちゃんとタイにも「ぞうさんのうた」があるんだよ。)
これには子供達も大喜び。真剣にタイ語を練習してきた成果が発揮された…かな?

そして日本の遊びを伝えようと取り出したのは、けん玉。
5分も教えると、子供達はみんな、けん玉を上手に使うことが出来るようになったのである。

まぁ…、「♪もしもし亀よ〜亀さんよ〜」に合わせてやるのは5分間の練習では無理だったけどね。

タイの掛け算は、
12×12まで。
覚えるの大変そう…。
そして子供達への質問タイム! 「将来の夢は?」の質問に、男の子の多くは「軍人」と答えた。
日本の子供達との大きな差を感じた瞬間だった。

子供達は給食の時間
INSPiは、体育館の裏でこんな食事を…。
午後からは、体育館を借りてINSPiの文化交流ミニLIVE。

たくさんの子供達に拍手で迎えられて登場した6人。INSPiならではの優しい歌声に子供達も聴き入っていた。
タイ語に訳して歌った「ココロの根っこ」。カオラックの子供達のココロにも、ちゃんと届いていたと思うよ…。
カオラックで多く見られた高床式の仮設住宅。
津波から身を守る対策の1つである。

「メルリンビーチリゾート」の田中友紀子さんと一緒に。
カオラックを後にしたINSPiは、プーケットで2人の日本人に逢う事ができた。

1人は、プーケットのパトンビーチにあるホテル
「メルリンビーチリゾート」のスタッフ、田中友紀子さん。

田中さんは、津波の時にホテル1階のオフィスで、
一人っきりで仕事をしていた。締め切った部屋のドアの
隙間から水が入り込んできて、急いで床にあったものを
机の上に上げた。

最初は「水道管でも破裂したのかな?」と思ったらしいが、
窓から外を覗くと、大量の水と一緒に車が流れてきて
事態の深刻さを感じ取ったらしい。
逃げようと思ったけれど、ドアは水の重みや流れてきたものでなかなか開かなかったそうだ。かなり慌てたことだろう。
部屋を脱出したあとは、宿泊のお客さんの対応に追われ、その後はホテルの改修工事などに追われた。
もう1人は、日本人観光客向けのダイビングショップ
「マリンプロジェクト」を経営している宮谷内泰志郎さん。

なんと宮谷内さんは、津波のとき、まさにその海の中に
いた。潮の流れが普段と違って、あっちこっちから
やってきた。不吉な予感がして船に上がって、無線で
仲間と交信して津波の事態を知ったそうだ。

自分の頭上を津波が駆け抜けていったのだろう。

宮谷内さんは、ボランティアとして愛する海の珊瑚の
調査をはじめた。この津波で多くの珊瑚が被害にあった。

「マリンプロジェクト」の宮谷内泰志郎さんと一緒に。
「このままでは多くの珊瑚が死んでしまう。何とか珊瑚を再生させて、元の美しい海にしたい。」
仲間と共に珊瑚の再生に力を注いだ。彼らの努力と、珊瑚自身の驚異的な生命力によって、今では津波前と同じように、
いやそれ以上に、美しい珊瑚の海に戻ったそうだ。

プーケットでは、津波対策の1つとして、
あちらこちらに標識が立てられるようになった。
珊瑚も再生して、街も復興した。

でも東洋人を中心とした観光客がなかなか
戻ってこないのが、今のプーケットの現状である。

日本のメディアも、当時は津波の被害や救出活動の
様子をたくさん伝えた。

でもその後の復興状況が、しっかりと伝えられて
いないので、まだまだ行く場所ではないと考えている人も
多いのかもしれない。

それに被害にあわれた方々のそばで、思いっきり
楽しむのは失礼だと言う考え方を持っている方も
多いと思う。
でも、タイの人達が今一番望んでいるのは、
以前の様な観光客がいっぱいの活気ある街の姿。

そして、本当に笑顔で笑える日々。

我々が、その地を訪れて直接彼らと笑顔で接することが、
大切な人にお別れの言葉すらかけてあげられなかった
彼らの、本当の意味での笑顔につながるのでは
ないだろうか…。

INSPiの旅は、まだまだはじまったばかりである…。

夕日のパトンビーチ。
津波は、この穏やかなパトンビーチをも襲った。