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旅人:普天間かおり(HP)&今泉 清保(HP
魂の宿る場所〜沖縄・青森の旅
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沖縄・ユタ編


皆さんは『ユタ』をご存知ですか?

「おじいちゃんの具合が良くないのよねぇ。ユタに
みてもらおうかしら」
「マブイ落としたかもしれないから、
ユタに行ってみたら?」

何のことだかさっぱりわからないかもしれませんが、
こういう会話が沖縄の日常ではごくごく普通に
出てくるわけです。

沖縄ではこういう考え方があるんですよ。
私たちの中にはマブイ=魂みたいのものがあって、
あまりにも驚いたり、精神的に衝撃が強い出来事を
体験したりすると、生命力につながるマブイを
落としてしまう、というもの。
マブイを落としてしまうとどうなるのかというと、体調不良、仕事や生活の不調が出てくるそうなんです。
逆に言えば、身の回りに不協和音が生じてしまうとそれはマブイを落としたのではないか?と考えるのですね。

また、日々の暮らしの中で人として大切な何かを怠ったときに、それを戒めるために先祖やあの世から警笛が鳴らされる。
それが、不協和音なのだと。

落としてしまったものは、何とか拾わなくてはいけません。
そういうときに登場するのが、『ユタ』なんですね。

大雑把には理解していたけど、『ユタ』って一体なぁーに?
幼い頃から何となく耳にしていたこの存在を、今回改めて取材してみました。
まず伺ったのは、雲龍山獅子院の玉那覇先生。私の実家がかれこれ25年程、祈祷でお世話になっている方です。

仏教の学びもされている先生の雲龍山獅子院には、たくさんの仏像や供え物、そして私には読み取れない
お経のような言葉が記されていました。
神聖で厳粛な雰囲気が漂っていて、あちらこちらから心を
見透かされているような不思議な感じ。いささか
緊張気味の私にまず先生が口にしたのは・・・

「私はユタではありませんよ。」

出だしから思わぬ展開に戸惑ってしまいました。
玉那覇先生はそういう存在ではなかったのぉ・・・?

伺ってみると、『ユタ』というのは第六感とも言える特別な
能力を備え、その力を人々の不安解消に役立てるのが
大きな役割のようなのですが、中には能力もないのに
さもあるかのごとく振舞って、人々をますます
困惑させた上に金儲けをしているというインチキな人も
増えているんですって。
その結果、『ユタ』は何だか良くない印象を持たれている
状況もあり、本当に能力がある人は『ユタ』という言葉を
軽率には発しないみたい。

持って生まれたその能力は、修行や学習で
得るものではないんですね。
やはり、神から与えられた力なのでしょう。

沖縄独自の宗教観である祖先崇拝。命の系譜に心から
感謝し、誇りを持つ。それが、沖縄の人々の生き方であり、
そこから『ユタ』というものが生まれてきたんですね。

いつの世も人は迷い、それでも家族や大切な人を守りたい。
だから『ユタ』に救いを求め、心を慰めて
もらっていたのでしょう。

とても健気な思いなように感じました。
最近では、昔ながらの慣習も簡素化されつつあり、消えゆく伝統もあるのかもしれませんが、
この純粋な思いはこれからも持ち続けなくてはいけないと、改めてウチナーンチュ(沖縄人)として思いました。

『ユタ』は、あの世とこの世をつなぐ人。
そしてそれはきっと、あの世とこの世の思いをつないでいるんじゃないのかな。


三角岩
沖縄には神聖な場所がいくつもあります。神に祈りを捧げる場ですね。
琉球王府時代には、祈りが国家として重要なものだったようです。
その祈りには、神事を司る『ノロ』という人の存在が必要不可欠だったんですね。

沖縄の聖地の中でも一番位が高い、斎場御嶽(セーファーウタキ)。
ここは、琉球王府の王が祈りを捧げた場所。

御門口
実は私の苗字である「普天間」は、ルーツを辿ると
琉球王朝の王に繋がっているんですね。

ですから、かつて何百年も前に自分の先祖がここで
国の繁栄を願い、家族や人々のしあわせを
願っていたのかと考えると、とても感慨深く、
厳粛な気持ちになってしまいました。

当時は、女性が神への祈りを捧げる『ノロ』という役目を
仰せつかり、斎場御嶽も男子禁制だったとか。

どうしてだったんでしょうね。
命を育み、誕生させる力を持つ女性。そんな神秘にも繋がっているように思えてなりません。
戦争で焼け野原になった御嶽周辺も、今では深い森となって蘇り、静かに新しい時代を見守っているようです。

御門口上から久高島方面

久高島遥拝所から
丘の上からは、神が降り立ったと言われる久高島と美しい海が見えます。
海の彼方にはニライカナイという神の住む楽園があると考えられていた時代。
人々は自然や神々に感謝し、ミルクユガフ(すべての人が豊かでしあわせな世の中)を願っていたんですね。

寄満
自然とともに生きる、このとてもシンプルで純粋な生き方を、昔の沖縄の人々は当たり前に実践していたのでしょう。
現代の私たちが忘れかけている何かが、そこにはあるように思えます。

リゾートや基地、はたまたブームとして取り上げられる沖縄とは違った、真摯な沖縄の心に触れたような気がしました。

誰かを思うこと、信じること、祈ること。それがお金や物ではなく、心を潤すかけがえのないものなのかもしれませんね。
生きとし生けるものへの深い愛を感じる旅でした。



                                                       普天間かおり
賽の河原・イタコ編

私は青森市で生まれ、高校を卒業するまで青森で育った。
けれど、青森のことなんてよく知らないということを、最近になってしみじみと感じるようになった。
青森にはたくさんの夏祭りがあるけれど、青森のねぶたしか知らない。行ったことがないところだらけだし。

知っているようで知らないことのひとつに、イタコのことがあった。
イタコの口寄せのことは皆さんご存知であろう。亡くなった人をあの世から呼び寄せて話をすることができるというものだ。
知ってはいても、これまでの人生で、イタコに亡くなった人を呼んでもらおうと思ったことは無かったし、
大体にしてイタコってどんな人なのか、実のところ全然知らなかった。
今回お話を聞いたイタコは平田アサさん。昭和4年生まれというから今年で77歳だが、声には張りがあってお元気だ。

平田さんは生まれつき目が不自由だった。
当時、目が不自由な人が生きていくのは
大変なことだったので、9歳のとき、生きていくために
イタコの修行に入る。

イタコの人の家で、身の回りの世話などをしながら、
カミサマの声が聞こえるようにと毎日お祈りを続け、
2年の修行ののちイタコになった。修行の最後には、
部屋に幕を張り、水をかぶるということもしたそうだ。

知らなかったのだが、口寄せをしてもらうときには、
会いたい人の正確な死亡年月日だけがあればよくて、
名前などは必要無いのだそうだ。

それでどうして会いたい人がわかるのかと尋ねてみたら

「目の前の人とあの世の人の、思いが通じる人を探します」

ということであった。
平田さんのところにやってきた人の、亡くなった人に
どうしても会いたい、という強い思いが、平田さんを
通してその人を呼び寄せるのだろう。
生きるためにイタコになった、と言う平田さんに
「平田さんにとってイタコは仕事ですか」と
尋ねてみた。
平田さんは「はい、そうです」とはっきりおっしゃった。

次に「イタコという仕事は好きですか」と聞いてみた。
こんな質問をしていいのかとも思ったが、きっと
平田さんはこの仕事が好きなんじゃないかと、
お話を聞きながらずっと思っていたのだ。

平田さんは顔をまっすぐにして「はい、好きです。
これでよかったんです。これがよかったんです」と
はっきりおっしゃった。

私には学問が無いけれど、相談に来る人の話を
聞きながら、いろんなことが勉強できる、
そのことがありがたい、と。
時代が変わって、イタコになろうという人もいなくなった。津軽に残るイタコは平田さんただ一人だ。
改めてとても残念に思うが、こればかりはどうしようもない。私が今からイタコになるわけにもいかない。

世の中には、こうやって無くなっていくものがあるということなのだ。寂しいけれど。
平田さんにお話を伺ったあと、五所川原市金木町にある
「川倉賽の河原地蔵尊」を訪れた。

金木といえば太宰治の故郷として有名なところで、生家である旅館は現在「斜陽館」という記念館になっている。

しかしきょうの目的地は、太宰とはまったく関係の無い、
恐山に並ぶ霊場として知られるところ。

もちろん来るのは初めてだし、
行こうと思ったこともなかった。
広辞苑によると、賽の河原とは「小児が死んでから苦しみを受けるとされる、冥途の三途の川原。
石を拾って父母供養のため塔を作ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救うという」だそうだ。

ここ川倉の賽の河原は、言い伝えによると、数千年前、不思議な御燈明が飛んできて、
その光が照らしたところを掘ったところ地蔵尊が出てきたので安置したのが始まりだとか。
まずは「取材をさせていただきますね」と手を合わせてから、
川倉賽の河原講中理事長の中谷さんの案内で、
賽の河原を歩いてみることにした。

ゆるやかな下り坂の細い道。その両脇のあちこちに
石が積んであり、風車が立てられている。
石を積むことで、亡くなった子供の冥福を祈るのだ。
石だけではなく、たくさんのお地蔵様も置いてある。
この賽の河原の周りの木は、昔から一切手入れを
していないそうで、うっそうと茂った木が道を覆って、
昼間でも薄暗い。

賽の河原の坂道を下ったところで池に出る。
そこから地蔵堂の裏に回っていくと、蛇塚がある。

昔、無数の赤い蛇がここに現れ、
イタコに見てもらったところ、飢饉のときに亡くなった
無縁仏が供養を求めて現れているというので、
塚を作って供養したのだそうだ。
その隣には動物霊供養堂、というものがあった。

亡くなったペットなどを供養するところで、愛犬の写真が
置かれていたりするのだが、卒塔婆の文字を見ていたら
「150年前に家の敷地内で殺害した男女の蛇を供養…」
と書かれているものがあった。

中谷さんによると「なにか家で不幸なことがあって、
イタコに見てもらったら以前蛇を殺していると
言われたので供養したんでしょうね」ということであった。
150年前に死んだ蛇のたたり…。
ぐるっと後ろから回る形で地蔵尊堂へ。

入ると、正面に6体のお地蔵様が並んでいて、
その両脇には膨大な数の履物や手ぬぐいが置かれてあり、
天井からはたくさんの着物がぶらさがっている。

「あの世で着てもらうための着物とか靴とか、
汗を拭くための手ぬぐいです」と中谷さんが教えてくれた。

あまりの数に圧倒されてしまうのだが、ふと見ると、
小さな靴ばかり。
まだこんなに足が小さかった頃に
亡くなってしまったのか…。

賽の河原の先の池
正面のお地蔵様の裏手に回ると、今度は数え切れないほどのお地蔵様が、階段状に並んで置かれている。
ステージの上から観客席を見渡しているような感覚になるほどだ。このお地蔵様は、賽の河原に置かれたもののうち、
身元のわかったものを安置したのだそうだ。これまた数の多さに圧倒されてしまう。
地蔵尊堂の隣には人形堂がある。
ここには、たくさんの夫婦人形が置いてある。
結婚することなく亡くなった人が、適齢期になったら
あの世で結婚できるようにと、花婿・花嫁姿の人形を
奉納するのだ。

人形ケースの中には、亡くなった方の写真が
入っていたりする。小さな赤ちゃんから十代の若者まで。
亡くなった方の無念もそうだが、子供を亡くした家族の
思いや悲しみがせまってきて、私は言葉が
出なくなってしまった。ほんとうにここは、家族の思いや
愛が集まっているのだ。

川倉賽の河原地蔵尊では、旧暦の6月22日から
24日(だいたい7月の半ばぐらい)に大祭が行われる。
大祭のときにはイタコがやってきて口寄せが行われ、
大勢の参拝客で賑わうのだそうだ。平成の時代に
なってずいぶん経つが、今でもこの地を訪れる人が
絶えないことに、正直言って驚いた。

賽の河原やイタコの話をすると、信じるとか信じないとか、怖いといった反応が返ってくる。
私だってずっとそんな感じだったのだが、今回の取材で思った。

信じるも信じないもないのだ。亡くなった人にはもう会えない。何かしてあげたくても何もしてあげられない。
でも会いたい、何かしてあげたい、だからイタコに会いにくる。賽の河原にやってくる。それしかできることが無いからだ。

賽の河原はちっとも怖いところではなかった。たくさんの石や、お地蔵様や、人形は、亡くなった人へのまっすぐな思いが
あらわれているものだから。そして平田さんは、こちらの話を全部受け止めてくれる、広くてあたたかい心をお持ちであった。


青森に生まれ育っていながら、ほんとうに知らないことばかりで、取材中驚いてばかりであった。ふるさとの知らない一面を
知ることができて、本当に良かったと思う。私が言うのもなんだが、青森って奥が深いなぁ。


                                                          今泉清保

 
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