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旅日記 : JFNアナウンサー 井門宗之

震災から12年後の神戸

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1995年1月17日午前5時46分。マグニチュード7.3の直下型地震が兵庫県を襲った。

死者6434人、被害総額10兆円とも言われる【阪神淡路大震災】である。

高速道路の倒壊、潰れる家屋、市内のあちこちから上がる炎…。12年前の様子を、テレビなどの映像で覚えている方も
多いでしょう。ライフラインは寸断され、帰るべき家も失い、避難所では多くの方が眠れない日々を過ごした。
当時神戸の人々は(神戸のみならず)こう思ったそうだ。

「もう街は元に戻らないかもしれない…。」

あれから12年。2007年、1月。

YAJIKITA一行は、震災当時地震の影響で
40センチ程沈下したという神戸港の
メリケンパークに立っていた。

震災で寸断された陸路にかわり、全国からの
救援物資を運ぶ入口となった神戸港。

勿論無傷だったわけでは無い。
その名を『神戸港震災メモリアルパーク』として、
折れ曲がった電灯、亀裂の入った港の一部が
12年前の姿そのままで残されているのである。
12年前、最初に目に飛び込んできた、
神戸の街を包む黒煙と粉塵。
1月の寒空の下に広がるモノクロの世界は、
誰もが知っている神戸とは別の街のようだった。

12年後、いま目の前に広がる景色の中に、
震災を思わせるものはほとんど見る事は無い。

1月の空の下には、カラフルで真新しささえ漂う街並みを
見る事が出来る。

しかし、被災した方の心の中を覗けば、そこにはすぐに
震災の爪痕が残されてるのだ。

忘れることなど出来ない。

忘れてはいけない。

今回のYAJIKITA ON THE ROADは『1.17 12年後の神戸』と題して、震災からの12年を、
自分達の目をしっかりと通して取材してきた。

震災後新しく出来たHAT神戸地区。

ここには阪神淡路大震災の経験と教訓を後世に継承し、災害被害の軽減に貢献するための施設、
『人と防災未来センター』がある。

取材した日に行われていた【災害メモリアルKobe2007】というイベントには、防災ボランティアの授業を受けた
小・中学生達が、震災に想う素直な気持ちを作文にして発表していた。

12年前、生後すぐだったという小学生。もちろん何も覚えていないが、親から沢山のことを学んでいるという。
被害の酷かった長田地区にある「大正筋商店街」にも取材に赴いた。

330メートルの商店街におよそ100軒。震災で9割が、燃えた。
震災から9年間、商店街として完全な形で再開出来なかった。

震災から12年経過したが、この大正筋商店街は復興から3年程しか経っていないのだ。
辛いことの方が多かっただろう。
なんで私達が?とやり場の無い怒りに囚われたこともあっただろう。

しかし商店街組合副理事の伊藤正和さんは、商店街みんなの助け合いが無かったら、ここまでの復興は
無かったかも知れないと語る。

現在は商店街発の特産品を全国に拡げる為、精力的に活動中だ。ぼっかけカレー、長田ソース、
どれも商店街の人達の愛情とアイデアが詰まった逸品だ。
今年の1.17、早朝5時46分、私は神戸東遊園地で
開かれた鎮魂の慰霊祭に参列していた。

慰霊祭が行われてから2度目の雨。
1度目は10年目、そして2度目は12年目。

1.17の形にかたどられた竹灯籠にろうそくの火が灯される。粒の大きさが目で確認できる程の雨の中、
参列者はその火が消えない様に傘を差す。
開かれた傘で一旦地面が濡れるのが止む程、
沢山の方々が参列していた。

涙を浮かべる遺族の方も、黙って手を合わせる方も、
想いは様々だろう。そこにはそれぞれの
12年があるはずだからだ。
「がんばろうKOBE」。
震災後このスローガンを胸に、神戸の人々は驚異的な速度で街を復興させた。

「がんばって」ではなく「がんばろう」。

この言葉の中には、<人任せにはしないで、手を取り合って皆で復興させよう!>という気持ちが
詰まっている気がしてならない。取り戻した街は決して以前と同じものでは無いが、
誰もが助け合って復興させた街には、昔以上の想いもあるだろう。そして複雑な想いも。

現在神戸市では震災後新たに生まれた子供も含めて、人口のおよそ3割が「震災を知らない市民」だという。
今の神戸が美しい理由、そこに何があったのか、12年前この街に何が起こったのか、
いまこの文章を読んでいる皆さんも、考えて欲しい。

そして、自分の大切な人と話し合って欲しい。そうして話し合ったことを、次の世代に伝えて欲しい。
綺麗になった今の神戸の裏にあるものを、しっかりと見て欲しい。

6434人という尊い命は、あの震災で確かに奪われたのだから…。

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