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JFNアナウンサー 井門宗之  

      三宅島の今―

 
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7月15日夜。


三宅島への取材旅行に向かうべく、僕を含めたYAJIKITA一行は、東京・竹芝桟橋客船ターミナルへと集まった。竹芝に到着すると生ぬるい潮風が身体にまとわりつく。久しぶりに嗅ぐ潮の香りに、三宅島へ向かう実感と緊張感がわいてくる。

2000年6月26日に雄山が大噴火し、8月29日には火砕流が発生、9月2日から4日の3日間に全島民避難という事態を迎えた三宅島。今年2月に避難解除が出されてから、わずか5ヶ月あまり…。

この島の今の様子はどんなものなのか?
島民はどんな気持ちで過ごしているのか?

そんな事を考えながら、僕らは22時30分竹芝発−三宅島行のカメリア丸を待った。


三宅島入りする前にまず驚いたのは、客船ターミナルに集まった人の多さだ。サーフボードや釣竿を携えた人々でごった返している。そうなのだ、噴火があったとしても三宅島は一大ダイビングスポットであり、魚の宝庫!この客船ターミナルに集まった人たちの表情は明るい!

しかしそうは言っても、三宅島に入るには都の条例によって必ずガスマスクを携帯しなくてはならない事実もある。

僕らは待合所横にある売店で5人分のガスマスクを購入。その価格およそ2500円也。
ガスマスクというとどうしてもカーキ色で軍事用のフルフェイスのものを想像しがちだが、このマスクは鼻と口を覆う形状の簡易的なもの。

島民の人々はこれとともに生活を送っているのかと考えると、獏とした感情がやけにリアルに縁取られていく。

これが僕らの生命線!?
いやいや深く考えるのは止そう。船が来た。


「二等席なし」乗り込んだ僕らが手にした乗船券には無常にもそう書かれていた。

「おいおい席無しって何だ!?」

とりあえず船内の案内板に記された「二等スペース」に向かうYAJIKIA一行。すると雑魚寝ではあるが広々とした座敷スペースがあるではないか!早速人数分の寝床を確保し

「なんだよ〜快適ぢゃ〜ん!」

と同行プロデューサーは早々と着替えている。何て素早い動き。
普段の仕事もこのくらい早ければ…。いやいや、考えるのはやめておこう。

「二等席なし」僕らのチケットには、そう書いてある。
…5分程経った頃だろうか、

「あの、おくつろぎのところすいません。ここ僕らの場所なんですが。」

困惑した表情でそう声を掛けてきた一行が。よく見ると、しっかりナンバリングされている雑魚寝スペース。
赤面するYAJIKITA一行。
世の中そんなに甘くないのである。
「席なし」は本当に「席なし」なのだ。

まさに行き場をなくした僕らは、とりあえず座席のキャンセル待ちを申請し、一枚100円で貸し出されている毛布を手に甲板へ。潮風が身にしみる。驚いたことに甲板に出ると、僕らと同じ様に行き場をなくした人達で溢れ返っているではないか!?既にくつろいで酒盛りを始めている逞しい人たちもいらっしゃる。
ここは覚悟を決めた方が良さそうだ、と思った矢先である。

奇跡的にキャンセル待ちの座席を人数分ゲット!柔らかい床を確保できた我々は、とりあえず再び甲板に出て乾杯。三宅島までおよそ7時間。夜はまだまだ長いのである。                          

7月16日午前4時55分。


船は無事に三宅島の東側、三池港に入港した。

降り立った僕らをまず出迎えたのは、眼前にそびえる活火山、雄山。

噴火ガスの影響で山の木々は枯れ、真っ白になっている。

一種異様な光景に言葉を失うが、すでにこの三池港がある場所は「坪田高濃度地区」というガス濃度の高い区域である。

人のいなくなった建物には

「もう頑張れない 三池地区」

の生々しい落書き。
4年半の間に様々なものが変わってしまったであろう、三宅島。

噴火の爪あとをまざまざと見せ付けられながら、僕らを乗せた品川ナンバーのレンタカーは動き出した。
まず僕らが向かったのはこれからお世話になる「山之辺旅館」さん。

島内にはおよそ30の宿泊施設があるが、まだ全て営業しているわけではない。

「山之辺旅館」さんを切り盛りするのは、笑顔の素敵な女将・田中悠紀子さん。
神田生まれのチャキチャキの江戸っ子ではあるが、三宅出身のご主人と結婚なされて、三宅での生活も34〜5年になるという。

まだ旅館自体、内装も完全な姿ではないが、これからも少しずつ元通りにしていくとのこと。

頑張ってください!
YAJIKTA一行がまず取材に向かったのは「三宅島観光協会」。職員の久保さんにお話を伺った。

東海汽船の待合所でのインタビューだったのだが、ここがもの凄く暑い!!ガスが入らないように、建物自体外気の遮蔽率を高くしてあるのだそうだ。

したたり落ちる汗を拭いながらのインタビュー。

久保さんはもともと東京本土の方なのだが、噴火に際し都の職員として三宅島に来たとの事。

噴火という災害の中、逞しく、明るく生きる島民の方々のお話を伺った。
続いて僕らが向かった先は三宅高校。

ここで村役場観光振興係の宮下さんにお話を伺う。

校長室でのインタビューだったのだが、そこには全国から届いた応援の寄せ書きがいくつも目に留まった。
宮下さんは生まれも育ちも三宅島。

先日甲子園の東東京大会に地元三宅高校が出場した時、島民一丸となって応援したお話や(惜しくも敗れてしまったのだが…)、「三宅島で生きていくとはどんなことなのか」というお話を伺うことが出来た。

実はこのインタビューの最中にも

「ガス濃度が高くなったので注意してください」

というアナウンスが外から聞こえてくる。

いつになったら、三宅島の人々が安心して暮らせる日がくるのだろうか?
この日の午前中最後に、1983年の噴火に巻き込まれた旧阿古小中学校跡へ。

むき出しの錆びた鉄筋、それも火砕流の勢いでグニャリと曲がっている。コンクリートの壁は高熱に包まれたためだろう、黒く焼け焦げている。

阿古地区の中に今でも佇んでいるこの風景、日常の中の被災の爪痕は、この島が火山と共に生きているという事を強く感じるものであった。

振り返ると、後ろには真っ青な海が凪いでいる。

かつての阿古集落の姿

現在の阿古集落跡
さて三宅島の特産品の一つに「くさや」がある。

その伝統の味を噴火後も守り続ける清漁水産へ向かった。

この清漁水産を経営するのは、2代目のご主人青山敏行さん。もともと漁師であり、根っからの海の男である青山さんは、まさに職人。

噴火後、避難しているときも頭の中には亡きお父様から受け継いだ「くさや」の伝統が離れなかったという。

4年半という長いときを経ていままさに復活した三宅島の「くさや」。
魚をさばいて、タレに漬け込み、一枚一枚干していく。
一日何百匹という魚を、一人で「くさや」に仕上げていく。
インタビュー中も黙々とくさや作りを続ける青山さんの顔は、まさに職人のそれであった。
こだわり続ける男の表情というのは、抜群に格好良かった。

僕らはここで、干す前の生の「くさや」を焼いていただいたのだが、その柔らかさ!その風味の良さ!
職人の「くさや」は、味も抜群なのである。

実際に「くさや」のタレというのは塩水だけ、という話なのだが、そこに内臓を取り除いた魚を長時間漬け込む事により、発酵しあの独特のにおいが生まれるのだという。

秘伝のタレをおもむろに貯蔵庫から出す青山さん。その顔はどこか誇らしげだ。

「このタレ、ちょっと舐めてみるかい?」

「…。…え?」
目の前には発酵した泡がブクブクと浮かぶ、アズキ色の「くさやダレ」が。

「さっき来たお客さんは舐めていったけどなぁ。」

「は・はぁ…。」

「死にゃあしないよ。」

「はぁ。」

そこまで言われて舐めないわけにはいかないぢゃない。勇気を振り絞る井門とカメラマン仲野氏。
僕ら2人がYAJIKITAのカミセンとすると、残る3人のトニセンが遠巻きに僕らを見ている。そして何故か、その目は少々哀れみを含んでいる。大人ってズルい…。

「くさやダレ」の味は、みなさんのご想像にお任せします。

さて、およそ1時間に及ぶ清漁水産「くさや」工房での取材。
「くさや」というものは、その匂いが「くさいや、くさいや」というのが語源というほど匂いが強烈…。

工房を後にしたYAJIKITA一行。全員が「くさや」になった。   (つづく…)

焼いていただいた「くさや」

タレにつけた魚
 
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