周辺地図はコチラ
 
旅日記 : JFNアナウンサー 井門宗之

震災から12年後の淡路

HOME兵庫1>兵庫2
     
 
1995年1月17日、早朝5時46分。

その地震の振動は、まるで遠くから大きなものが迫ってくる様に感じられたという。大きな音と永遠に続くかの様な揺れ。
被災された方は当時の状況を生々しくこう語ってくれた。

「ジェット機がすぐ近くに墜落したのかと思いました。」

淡路島北部を震源とするM7.3、最大震度7の阪神・淡路大震災である。この地震は6434人もの尊い命を奪った。
家屋の全半壊はおよそ25万棟、被害総額は10兆円とも言われている。

あの震災から12年…。

12年という月日は、何を変え、何を残したのか。
我々YAJIKITA一行は、震災から12年後の神戸・淡路を取材した。


『阪神・淡路大震災』。

神戸の被害に目がいきがちになってしまうが、今回の取材先である淡路島も甚大な被害を被った事は言うまでも無い。
淡路島の北淡町、一宮町、津名町の一部では震度7を観測。60名以上の方が亡くなった。そしてここ淡路島では、
当時地表に現れた断層のずれを見る事が出来るのだ。

我々がまず向かった先は、そのずれた野島断層を保存している公園『北淡震災記念公園』である。

兵庫県と北淡地区でこの野島断層を保存しようと、
公園内にある【野島断層保存館】が完成したのは、1998年4月の事。

せり上がる地表は50センチにもなり、その距離は
5キロメートルも続くという。更に横にも伸びたずれは、およそ120センチ。これは小学生の身長分、
あらゆるものが震災によって横にずれてしまうという、到底考えがたい現象なのだ。

ここでお話を伺ったのは、野島断層保存館:副主任の岡田美紀さん。

保存館の入口でまず我々が目にしたのは、倒壊した国道43号線と潰れた実寸大の自動車。
あの大きな被害からすると、
震災の片鱗でしかないのかも知れないが、
スタッフ全員が立ちすくんでしまう…。
この保存館は前述の通り野島断層を保存する為に
作られた建物。

館内を進んで行くと、広いガラス張りのドーム状の
空間に出る。
そしてそこに広がるものに、
再び我々の足はすくんでしまった。

およそ140メートル。
地表自体が階段の様に横一直線にせり上がり、
建物をそこからくっきりと分かつ様に伸びたもの、
これが野島断層の姿なのである。

国指定の天然記念物に指定されている野島断層は、
本来あるはずの地表より50センチほどせり上がり、
館内にそのままの姿で保存されていた。

阪神淡路大震災はプレート内地震であり、
地球表面を覆うプレートの歪みが活断層に沿って
解放された結果発生したもの。

活断層とはおよそ200万年の間に少しずつ動き、
将来も動く可能性のある断層のことで、
阪神淡路大震災では六甲・淡路断層帯の一部である
【野島断層】が動いたのである。

一言で「動いた」と言うのは簡単であるが、地面が、
地球がせり上がっている状態を目の当たりにすると、
この震災が放ったエネルギーの大きさに改めて恐怖を
覚える。そして実際に当時この断層の上で生活していた
淡路島の人々を想うと…。

岡田さんは言う。「地元には、まだこの保存館に
来られないと言う方も当然いらっしゃるんです。」

12年の歳月とは、決して時間軸だけで計れる長さでは無い。爪痕は目に見える部分ではなく、被災者の心に静かに、
そしてくっきりと残っている。

野島断層の姿が震災のエネルギーの大きさを物語るのだとするならば、あの揺れが一般家屋に及ぼした力を知るものがこの保存館に展示されている。

それは断層が横切るまさにその上に建てられ、
しかも倒壊せずに残った【メモリアルハウス】と呼ばれる
一般家屋だ。

住宅がまるまる一棟、地表ごとせり上がる
メモリアルハウス。家の周りを囲う塀もいびつに曲がり
砕けてはいるのだが、コンクリート製の建物は
倒壊する事も無く、奇跡的にそのままの形で
残っているのだ。
このメモリアルハウスは、中が展示室として
公開されている。

もともと震災後も暫くは、元の持ち主の方々が
暮らしていたそうだ。現在は展示用に当時の様子を
再現した、食器の散乱した台所なども見る事が出来るが、
外側も内側も、見た目にはほとんど震災の傷跡を
確認する事が出来ない。

ただしよく見てみると建物全体が断層の隆起により
水平さを失っており、そこで改めてこの建物の下に断層が
横切っているのかと思い至るのである。
最大震度7の超巨大地震。

私自身は勿論体験してはいない。
以前東京池袋の防災センターで震度5の揺れを
(機械によって)経験した位だ。

実はこの【野島断層保存館】は、阪神淡路大震災の
最大震度と同じ<震度7>を体験出来る【震災体験館】を
併設している。

地震の映像資料や様々なデータと共にあるのは、
どこの家庭にもありそうな食卓とそれを囲む4つの椅子。

体験ブースとなるのは何の変哲も無いリビングダイニング。恐る恐る体験ブースへと踏み出し、椅子の一つに座ると
鳴り響くブザー。
この震災体験ブースは徐々に震度が
大きくなっていくものではない。

当時の阪神淡路大震災と同様に、突然震度7の揺れが
襲い掛かってくる。見えない力によって身体が左右に
振り回される。

固定されてあるテーブルにしがみついてないと、
椅子ごと吹き飛ばされそうになる。震度7がおさまり、
一息つく暇も無いくらいの所へ、続いて震度4の余震。
椅子に下ろした腰が上下に跳ねる。
およそ40秒の恐怖。
今は「これから震度7の揺れが始まります。」と
言われているから、多少の心構えは出来ていた。

しかし12年前のあの日は勿論、突如これが襲ってきたのだ。しかも5時46分という早朝の時間に。

この野島断層保存館の副館長で、語り部としても
活動を続けている米山 正幸(こめやま まさゆき)さんは
「揺れがおさまるまでは何も出来なかった。」と話す。
米山さんは震災時救助活動にも積極的に参加し、
その時の経験を、震災を知らない世代の子供達や、
震災を体験した事が無い人々へ「語り部」として伝えている。

米山さんは「普段から隣近所の人達をちゃんと知る事が
大切なんです。それがいざとなった時に、
行方不明者を減少させたり、自然に互いに助け合う形と
なって現れるんです。」と話してくれた。

被災地に芽生える共生の輪。
もしもアナタが暮らす土地に大地震が発生した場合、
隣近所の人々と連携して、救助の手を差し伸べる事が
出来るだろうか。

都市部に暮らす場合、物騒な世の中である、
近所の人と、ともすれば知り合わないでいる方が
安全と考える人も多いだろう。

ひょっとして個人レベルでは無く、
各自治体がこうした共生の輪を積極的に
作り上げる必要があるのかもしれない。
『被害を最小限に抑える工夫と、震災発生後の備え。』

共生・共助の輪。

今の日本ではあまり感じることが出来なくなったことを、
改めて大切に思う。
さて、【北淡震災記念公園】内には<レストランさくら>という食事処がある。

そしてこのレストラン、ある食材を使った料理で、地元のみならず県外でも注目されているのだ。
我々YAJIKITA一行を笑顔で迎えてくれたのは、料理長:清水 貞行(しみず さだゆき)さん。

井門「清水さん、ここは何を使った料理が自慢なんですか?」

清水「えぇ、なまずです!」

むむぅ…。震災記念公園内のレストランで
<なまず料理>とは。

清水さんや副館長の米山さんも、
最初はこの場所で<なまず料理>はどうなんだろうと
勿論考えたそうだ。

しかし、少しの笑いで人々を元気にしたいとの想いもあり、
レストランで出してみる事になったと言う。

YAJIKITA一行の前に供されたなまず料理は次の通り。
●なまず天丼
●なまずの唐揚げ
●なまずの天麩羅

なまずは白身で高タンパク。
栄養価も非常に高く、昔はよく食べられていた食材である。

フリッターの様に揚げられた天麩羅に、
甘辛のタレがかけらた天丼。一口頬張ると、
その身の柔らかいことと言ったらない。

ふんわりとした食感と白身から溢れる
ジューシーななまずの旨味。

これはご飯が進むクン。そして一際香ばしい匂いを放つ唐揚げ。

きつね色にカラっと揚げられた表面と、一口かじると現れるぷりぷりの白身。色合いだけでも食欲をそそるのだが、
抹茶塩でいただく天麩羅も想像以上の旨さ。なまず特有の生臭さは微塵も感じられない。
一口頬張るごとに笑顔が広がると、横にいる料理長清水さんの顔も笑顔になる。
スタッフ一同、お箸が止まりませんでした。

う〜ん、侮れないぞ!なまず料理。

YAJIKIATA一行がこの日泊めていただいたのは、洲本温泉という温泉郷にある【四州園なぎさ】である。
この洲本温泉も12年前の震災で甚大な被害を被った地域。観光地域で最も恐ろしいのは風評被害である。
洲本温泉も温泉自体に被害は少なかったものの、しばらくは観光客が遠のいたそうだ。

そこで立ち上がったのは、洲本温泉の女将たちで結成された【女将の会】である!

自分達の温泉を、自分達の力で何とか
立ち直らせたいとの願いから、女将の会は大阪に出向き、
着物姿で駅などの利用客に洲本温泉をアピールしてきた。

その地道な努力と女将達の笑顔が功を奏し、
徐々に洲本温泉にも観光客が戻ってきた。

そして今の賑わう温泉郷の姿を取り戻したのだ。
実は取材中も宴会場からは賑やかな声が響き、
自慢の温泉も沢山のお客さんで溢れていた。
この地域は目の前に瀬戸内海が広がる、
海の幸が非常に豊富なところ。そして今の時期の目玉は、
フグなのです。

フグ。フグチリ、ヒレ酒、フグ雑炊!!
それだけじゃない、旬の魚の新鮮な色みが光る刺身、
椀物、つやつやのご飯、どれをとっても最高なのである。

一足部屋に戻ると、窓の外に広がる一面の瀬戸内海!
温泉で火照った身体に、海の匂いのする夜風が心地いい。

景色が織り成す雰囲気だけで、
ビールがすすんでしまいそうだ。
温泉は勿論のこと、名産は沢山ある。生でかじると甘さが
広がる玉ねぎ、幻想的な優美さを湛える水仙。
そして女将の笑顔。是非みなさんも洲本温泉の素晴らしさ、堪能してみてください。

その夜、YAJIKITAレジェンドで最優秀賞を獲得した
構成作家のYがやらかしてくれたのだが、
知りたいですか?いえ、ここでは止めておきましょう。
彼の活躍は旅の映像記録<YAJIKITAレジェンド後編>で
お楽しみ下さい。

阪神淡路大震災から12年。

震災当時はまだ建設途中だった明石海峡大橋の下から神戸の街並みを眺めながら、この12年で何が変わったのか考えた。新しい街並み、震災後に生まれた子供達、活気を取り戻した観光名所。
街は新しいものに溢れた。
しかし直接的にも間接的にも、あの震災を体験した人々の心にはくっきりと傷跡が残っている。
1.17慰霊の集いである参加者の声が忘れられない。
「12年なんてあっと言う間なんです。【安らかに】なんて言えない。」

記憶や印象が月日とともに薄れていく事を「風化する」という。
取材中に色んな方が「あの震災を風化させてはならない」と言っていた。
僕は、風化なんてしないと思う。ここに暮らす人々が風化なんてさせないと思う。

傷ついた心をそのまま持って生きていく事は、辛いことだ。
毎年1月17日になると、塞がりかけた瘡蓋を強引に引き剥がす様な想いになる被災者の方もいらっしゃるだろう。この想いを次の世代へどうやって伝えていくのか。

みなさんも、もう一度考えて欲しい。

晴天のキラキラ光る瀬戸内海を、沢山の船が行き来している。
遠くには鮮やかな神戸の街並み。
そこにはもう二度と、失いたくない風景が広がっていた。

HOME兵庫1>兵庫2