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旅人 : 今泉 清保

松尾芭蕉が歩んだ、
義経・奥州藤原氏、終焉の地、平泉・・・。

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源義経が自害し、奥州藤原氏が滅亡したのが1189年。そのちょうど500年後の1689年、平泉を一人の俳人が訪れ、
俳句や紀行文を残している。言わずと知れた松尾芭蕉、そして「奥の細道」だ。

平泉は、藤原氏の歴史をたどるのも楽しいけれど、芭蕉が歩いた道をたどるのもいいと思う。
あの松尾芭蕉と同じ旅ができるわけだし。
というわけで、今回も「古都ひらいずみガイドの会」の滝沢テル子さんに案内していただきながら、平泉を歩いてみた。

まず訪れたのは高館義経堂。「たかだちぎけいどう」と読む。ここで義経が妻子とともに自害したといわれている。
小高い丘の階段をのぼっていくと、ふっと視界が開ける。丘の先には北上川が流れ、
その向こうには束稲山(たばしねやま)がそびえている。平泉随一の景色だそうだ。

「奥の細道」には「先(まず)高館にのぼれば流、北上川南部より流るゝ大河也」とある。
芭蕉は平泉を訪れるとまずこの高館にのぼり、私の目の前に広がるこの景色を見たわけだ。
ここには芭蕉の句碑がある。


夏草や兵どもが夢の跡


有名な句だが、私はなんとなく、この句は草原を高いところから見下ろして詠んだんじゃないかという気がしていた。
何故かと言われると困るのだが、夏草を自分の目の高さで見ているんじゃなく、どこか高いところ、
そして景色が開けているという情景が、この句から浮かぶというか。

実際高館を訪れて、私が思ったとおりの景色だったことにちょっと驚いた。そして思った。
私は、自分が見ている景色を芭蕉も見たんだなぁと感慨にふけっていたのだが、ひょっとしたら芭蕉も、
義経もこの景色を見たんだなぁ、なんて思っていたんじゃないか。
そして私はいま、義経も芭蕉も見たであろう景色を見ているのだ。

義経も芭蕉も、私にとっては歴史上の人物でしかない。
その2人が、目の前の景色を通して自分とつながるのはとても不思議な感覚だった。

「奥の細道」の平泉編は「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有」という一文から始まる。
この中の「大門」ではないかと言われているのが、毛越寺(もうつうじ)の南大門跡。今は礎石の跡しかないが、
その先には美しい庭園が広がっている。

この庭園は、極楽浄土を表現したものだそうだ。大泉が池は5分もあれば回れてしまう小さな池だが、
浜を思わせる玉石が敷かれていたり、断崖を思わせる岩場があったりと、
まるで自然の海岸線が再現されているかのようで本当に美しい。
ここでは鐘をついてお願いごとができる。庭園に響き渡る鐘の音も荘厳ですばらしいのでぜひやってみていただきたい。

そしていよいよ中尊寺へ。芭蕉はここでも有名な句をのこしている。


五月雨の降のこしてや光堂


この句の「光堂」が、有名な金色堂だ。平泉といえば中尊寺、中尊寺といえば金色堂だろう。しかし訪れるのは初めてだった。

参道を歩いていったら金ぴかのお堂が現れるのかと思ったらそうではなかった。
金色堂は保護のためにさらにその外を建物で覆われているのだ。これを「覆堂」という。

覆堂の中に入ると、芭蕉が「光堂」と詠んだとおり、燦然と輝くお堂が現れた。
金色堂が建てられたのは1124年だから今から900年近く前だ。
現在の金色堂は昭和の大修理によって本当にピカピカになり、建立当時の姿を見ることができるが、
今から900年前にこんなものを建てたなんて「どんだけ〜!」という感じだ。
藤原四代の栄華というのがどれだけ凄かったのか、金色堂を見ただけでわかる。

この金色堂の下には、清衡から泰衡まで4人のご遺体が眠っている。これは世界でも珍しいことだそうだ。

平泉はすごいところだ。光り輝くお堂にも、とうとうと流れる北上川やその向こうの束稲山にも、
田んぼの真ん中に整然と並ぶ石にもみんな歴史がある。そして、歴史を守り続ける文化がある。
もし皆さんがこれから平泉を訪れることがあったら、どうか、単なる観光地だと思わず、ゆっくりと歩いてみてほしい。
いろいろなところに、藤原氏の、義経の、そして芭蕉の歴史が隠れているから。

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