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旅人 : 牛嶋俊明

赤穂〜今も語り継がれる“忠臣蔵”伝説!

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今回は兵庫県赤穂市を訪れました。赤穂といえば、“赤穂の塩”が全国的に有名ですが、
それより多くの人々に知られているのは忠臣蔵=赤穂事件ではないでしょうか?

今から約300年前。江戸城中で赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本の吉良上野介義央に斬りつけますが、
討ち漏らして切腹処分。その後、浅野の遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士四十七士が、
元禄15年12月14日に吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たした・・・
というのはあまりにも有名な話ですよね。赤穂市の人々は、赤穂浪士ではなく赤穂義士と呼び、心にその魂が宿っています。
今回は、赤穂で語り継がれる忠臣蔵の物語を紹介します。

最初に訪れたのは、息継ぎ井戸です。元禄14年3月19日、早水藤左衛門・萱野三平の両士が、
主君による刃傷事件の凶報を持って江戸から早籠を飛ばし、ようやく赤穂に到着しました。
その時にひと息ついたと伝えられているのがこの井戸です。赤穂の上水道は、江戸時代には神田上水、
福山上水と並んで日本三大上水道のひとつと言われています。刃傷事件を伝える直前、早水藤左衛門と萱野三平は、
どんな気持ちでいたのでしょうか。

次は、花岳寺です。ここは、浅野赤穂藩の初代藩主、浅野長直が常陸国笠間から転封になった時、
浅野家の菩提寺として建てられた曹洞宗の寺です。以後、歴代藩主の菩提寺となり、
浅野家、森家の歴代藩主と遺髪が納められていると伝えられる四十七義士の墓碑があります。
赤穂藩と義士ゆかりの品々が保存されている義士宝物館や義士木像堂など見所も数多くあります。

義士の墓には、“刃”の文字が・・・。これは切腹したという意味だそうです。しかし、ひとつだけ“刃”の字がない墓がありました。これも有名な話ですが、仇討ち後に姿をくらました寺坂吉右衛門の墓です。赤穂義士は吉良邸討ち入り後、
泉岳寺へ引き上げますが、そこに寺坂吉右衛門の姿はありませんでした。討ち入り直前に逃亡したという説、
討ち入り後に大石内蔵助から密命を受けて一行から離れたという説などがありますが、真相が分からないのが残念です。

花岳寺には、鳴らずの鐘があります。吉良邸討ち入り後、幕府は浪士の処分に困りましたが、結局、彼らに切腹を命じます。
そして浪士切腹の報が赤穂に届くと、民衆が冥福を祈って鐘を打ち鳴らし続けたそうです。しかし、あまりにも撞きすぎたため、以来、この鐘は鳴らなくなってしまい、寛政9年(1797年)に再鋳造されるまで鐘が鳴る事はなかったと言われています。
もちろん、現存の鐘は鳴るそうですが・・・。

花岳寺の門に入るとすぐに松の木が見えます。これは大石名残の松です。
元々は元禄4年(1691年)に大石良雄が母の冥福を祈り植えた松で、元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、
この木の下で名残を惜しんだため、後に、このように呼ばれたとされています。
しかし、元禄4年に植えられた松は昭和2年(1927年)に松食い虫によって枯れてしまったそうで、
現存の松の木はその後植えられた二代目と言われています。

次は大石神社を訪れました。大石内蔵助良雄ら赤穂義士を祀る神社で、
江戸時代には幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、明治元年(1868年)、
明治天皇が赤穂義士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わして義士たちを弔って以降、
赤穂と京都に義士を祀る神社が創建されました。境内には、国指定史跡の大石良雄宅跡の長屋門や庭園、
義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物館があります。そこには忠臣蔵のドラマによく登場する采配、
笛がありました。
また、義士木像奉安殿には、第一級の彫刻家によって彫られた浅野内匠頭と四十七義士の木像が展示されています。

大石内蔵助吉雄を描いた掛け軸や、これまでテレビや映画で大石を演じた俳優が
大石神社を訪れた写真も多く展示されていました。北大路欣也さん、里見浩太朗さん、中井貴一さんなどなど、
あなたはどの内蔵助が良かったですか?

次に大石良雄宅跡の長屋門を訪れました。浅野長直の赤穂藩入封以来、57年にわたって大石家三代の居宅がありましたが、享保14年(1729)の火災で建物の大半が消失し、現在この長屋門だけが残っています。元禄14年3月、
主君浅野内匠頭による刃傷事件の凶報をもった早水、萱野の早かごが叩いたのもこの門です。
内部は庭園となっていますが、元禄時代に創建されたものを修理、復元されているそうです。
建物の中には当時の様子を再現したセットや籠もありました。

続いては赤穂城跡です。正保2年(1645)、
5万3500石をもって常陸国笠間から転封された浅野長直が近藤正純に築城設計を命じ、
慶安元年(1648)から13年を費やして築いた城です。甲州流軍学による城郭の縄張りは本丸と二の丸は輪郭式、
二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。
天守閣は築かれず天守台のみが築かれました。明治の廃藩後、赤穂城も取り壊されましたが、昭和30年に隅櫓、
平成4年〜8年にかけて本丸門が復元されました。

赤穂城には天守閣はありませんが、石垣の上の天守台から見下ろすと、
当時の城内がどのようになっていたかを知る事が出来ます。建物はありませんが、
コンクリートの地面に『風呂』『台所』などの表示があり、どこに何があったのか詳しく紹介されているのはユニークでした。

続いては、赤穂市立歴史博物館です。愛称を”塩と義士の館”と呼び、
赤穂の塩・赤穂の城と城下町・赤穂義士・旧赤穂上水道の4つのテーマに分類して郷土の歴史資料を多数展示しています。
塩づくりの歴史を模型や映像を使って分かりやすく展示しているほか、「忠臣蔵」を、史実のみならず、
演劇・絵画をはじめとする文化的側面からもとらえています。

最後は赤穂義士の研究をしている高光寺の三好一行住職にインタビュー。
三好さんは、中村勘九郎(当時)主演の大河ドラマ『元禄繚乱』の時代考証をされているくらい、とにかく詳しい方です。
基礎的な話からマニアックな話まで幅広く伺う事が出来ました。中でも『大石内蔵助は、
吉良を欺くために芸者遊びをするなど、あえてうつけを演じていたのか?』という質問に、
『いやいや、単なる遊び人だったんです』という答にはびっくり。
でも、大石内蔵助は駅前に銅像があって市民を見守る赤穂の象徴的存在です。
赤穂市観光ボランティアガイド大鹿雄康さんにも大変お世話になりました。ありがとうございました。

以上、FM岡山の牛嶋俊明でした。

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