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旅人 : 牛嶋俊明

天地人!直江兼続の生涯
〜米沢…兼続のまちづくり〜

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FM岡山・DJの牛嶋俊明です。
今回は、来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公・直江兼続ゆかりの山形県米沢市を紹介します。

直江兼続は、上杉謙信の養子・上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。その深い教養と見識は豊臣秀吉に高く評価され、
徳川家康が最も恐れた男と言われています。関が原で東軍に敗れた後、上杉家の米沢移封に伴い、
執政として米沢城下を整備、現在の城下町米沢の基盤を築きました。ちなみに米沢は、
牛嶋が小学校1年生から10年間暮らした青春時代の場所で、今回はなつかしい気持ちでいっぱいの取材になりました。
街は兼続のマスコットキャラクター“かねたん”の姿があちこで見られるなど、早くも直江兼続を盛り上げるムードいっぱい。
青春時代の思い出の場所だけに、2009年は米沢が全国的に話題を集める事を祈るばかりです。

最初に訪れたのは、山形県米沢市に鎮座する神社・松岬神社(まつがさきじんじゃ)です。上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、
細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀っています。米沢城の二の丸に鎮座し、あまり目立ちませんが、
庭園など境内はよく整備されています。そして、境内東側には上杉鷹山(うえすぎ ようざん)の銅像がありました。上杉鷹山は出羽国米沢藩の第9代藩主で、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。2007年に読売新聞社が日本の自治体首長に対して行ったアンケートで“理想のリーダー”として上杉鷹山が1位に挙げられ、
アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、
日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げています。ケネディが鷹山について発言した際には、
日本人から『Yozanとは誰か?』と質問が出たほどで、現在の鷹山の全国的な知名度や人気の高さには、
ケネディやクリントンが名前を出した事が背景にあります。直江兼続を紹介する前に、いきなり上杉鷹山の話題ですが、
実は鷹山は、直江兼続が米沢で行ってきた事を参考に政治に取り組んだそうです。
それを考えると、直江兼続も今以上に著名になってもいいのではないでしょうか?

鷹山の銅像の横には、伝国の辞(でんこくのじ)の碑がありました。
これは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得です。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事

上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承されたそうです。

続いては、上杉謙信を祀る上杉神社です。上杉謙信は天正6年(1578年)に越後春日山城で急死した際、
遺骸は城内の不識庵に祭られましたが、後を継いだ上杉景勝が慶長6年(1601年)に米沢藩へ移封されたのに合わせ、
謙信の祠堂も米沢に遷されました。牛嶋も米沢に住んでいた頃は毎年初詣に訪れ、
友達ともお堀でザリガニ釣りをした思い出深い神社です。子供の頃は何も考えずに訪れていましたが、大人になり、
歴史を詳しく知った事で感慨深いものがありました。

上杉公園の南東の高台には謙信公御堂跡がありました。ここは米沢城下で最も高い場所として造られ、
上杉謙信の遺骸を安置していましたが、やがて謙信の遺骸は上杉家御廟所へ移されました。

上杉謙信の銅像、そして、“独眼流”伊達政宗生誕の碑もありました。伊達政宗は米沢城で生まれ、
25歳までの多感な青年期を過ごしました。幼い頃、内気でおとなしいと言われた政宗は、
この地で勇猛な名将に成長したと言われています。そして歩を進めると、またまた上杉鷹山の銅像が・・・。

有名な『なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』は、
『伝国の辞』と共に次期藩主に伝えられました。ちなみに、米沢市内の小学校と中学校の体育館には、
上杉鷹山の肖像とこの言葉が掲げられています。あれ?引き続き鷹山?兼続については?と思われるでしょうが、
残念ながら銅像はないものの、入口にある案内板でしっかり紹介されています。

神社内には、上杉神社の宝物殿である稽照殿(けいしょうでん)があります。上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、
絵画など約300点が収蔵展示されています。中には国の重要文化財に指定されているものも多々あり、
歴史ファンには必見です。直江兼続が所用していたといわれている『薄浅葱糸威最上胴具足』、
いわゆる『愛』の前立の甲冑が展示されています。へーっ!本当に『愛』が使われている。残念ながら写真撮影は禁止でした。

そして、『米沢市上杉博物館』です。ここには、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。
国宝・上杉本洛中洛外図屏風と国宝・上杉家文書を中心に、数千に及ぶ上杉家ゆかりの品々が収蔵されています。
鷹山シアターやジオラマで江戸時代の置賜と米沢を紹介し、洛中洛外図をCGによるバーチャル画像で鑑賞出来、
情報ライブラリーや体験学習室もあります。米沢の街の基礎を築いたことで評価されている直江兼続。
その活動がどういうものであったか?ジオラマ等を通じて知ってください。

続いては、上杉鷹山公が奨励したと伝えられる伝統の郷土料理の数々と、米沢牛を味わえる上杉伯爵邸です。
上杉伯爵邸は明治29年(1896)に米沢城二の丸に建てられた伯爵邸建築で、
当時の米沢市役所の数倍以上の巨費がかけられた大邸宅(敷地約5,000坪、建坪530坪)でした。
米沢大火によって焼失してしまいますが、大正14年に再建され、建坪は285坪とほぼ半分になりましたが、胴板葦き、
総ヒノキの入母屋づくりの建物と、東京浜離宮に依って造園された庭園が完成しました。

上杉伯爵邸では、直江兼続が大河ドラマの主人公になるにあたり、義の膳(写真右=¥5,250)、
愛の膳(写真左=¥3,150)という2種類の御膳が新メニューに加わりました。

どんな料理があるか少し紹介すると、まずは、冷汁(ひやしる)。米沢の代表的郷土料理のひとつとして
冠婚葬祭や行事の欠かせないもので、その由来は、陣中料理とされる説があります。ゆでた季節の野菜に、
貝柱と干し椎茸でとっただし汁をかけて食べます。材料は食用菊・雪菜・豆もやし・ナメコ・凍みコンニャクなどを使用しますが、季節によって異なるそうです。凍みコンニャクは、高野豆腐のコンニャク版で、日本で一件の農家でしか作っておらず、
置賜地方でのみ食用としています。

次は、うこぎ。低木の落葉樹で、とげがあることから垣根にもなり、若芽は食用になります。
ミジンに切って焼味噌と切り和えにしたり、御飯にまぜこんでうこぎ御飯・てんぷら等にし、
根は五加皮という漢方薬にもなるそうです。

そして、いも煮。いも煮鍋を囲んで野外パーティーを開くことを、いも煮会と呼び米沢の秋の風物詩となっています。
里芋・コンニャク・長ネギ・キノコ・牛肉等を材料とした醤油味の鍋です。いも煮会は、牛嶋も毎年川原で行っており、
非常に懐かしかったです。そして、塩引寿司。米沢では鮮魚が手に入らないことを逆手にとって、塩引きを使っています。
紅白に成ることから正月やめでたい席に出しているそうです。
兼続は、街作りだけではなく、様々な野菜の栽培を推奨して農地の整備にも力を注ぎました。
そんな直江兼続と米沢にこだわった御膳を是非、どうぞ。

メインは米沢牛です。刺身としゃぶしゃぶで頂きました。米沢牛は全国的に有名ですが、これは明治4年、
上杉鷹山公が創設した藩校『興譲館』に招かれていた英国人教師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏が、滞在中に米沢牛を食し、そのおいしさに感激。任期を終えて横浜に戻る時、牛を1頭連れて帰りますが、その牛を仲間にご馳走したところ、
その旨さに驚き、たちまち評判になったと言われています。
以来、米沢牛は100有余年の歴史を誇るブランド牛として愛されてきました。
きめ細かい霜降りと脂の質の良さ・・・くぅ〜!たまりません。(写真右上は、上杉伯爵邸の副支配人・鈴木拓也さん)

上杉神社のすぐ近くには、米沢牛グルメからお土産まですべてが揃う『上杉城史苑』がありました。
建物の横でもたくさんの名産品が販売されていましたが、大人気だったのは、
米沢牛の旨みをギュッととじこめた米沢牛コロッケです。牛肉を通常の2倍使い、さらに肉の魂を入れる事で、
かみしめると美味しさがジュワーっと感じられる贅沢なコロッケになっています。もちろん米沢牛100%。
隣には『玉こんにゃく』、『鯉の甘煮』も・・・。全てオススメ!です。

次に訪れたのは、上杉家廟所(米沢藩主上杉家墓所)です。国の史跡に指定されており、
その名の通り米沢藩の歴代藩主の墓があります。

上杉謙信が越後の春日山城で亡くなると、遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬されました。後継者の上杉景勝は、
会津に国替えを命ぜられた時も、謙信の霊柩も会津に移し仮堂に安置したと言われています。そして、関ヶ原の戦い後、
上杉家は米沢移にともない、謙信の霊柩も再び移動しました。上杉家廟所は、元々米沢城に一大事があった場合、
一時的に謙信の霊柩を避難させる場所として設けられた場所だったそうです。
廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟が厳かに立ち並んでいます。
『謙信公、牛嶋は米沢に帰ってきました。取材が無事に終わりますように・・・』と焼香して礼。取材時には、
“毎日通っている”という若いサラリーマンの姿もありました。謙信の左には景勝の霊廟も・・・。

続いては林泉寺です。ここは、今から約500年前、上杉謙信の祖父長尾能景が父重景の菩提を弔うために
越後国高田に建立されました。その後、上杉家を相続した謙信によって上杉家菩提寺となりますが、
米沢移封によって林泉寺も米沢に移りました。境内には景勝の正室菊姫(武田信玄の娘)や鷹山の側室お豊の方など、
歴代藩主の奥方や子女の御廟があります。

そして、ひときわ目立つ場所にあるのが直江兼続夫妻のお墓です。夫婦の墓所としては珍しく、
夫と妻が共に同じ大きさの墓となっています。直江夫婦は仲睦まじかった・・・と伝承にもあるように、長い時を経た現在も、
二人は共に寄り添って眠っています。

続いて訪れたのは、龍師火帝の碑です。これは、直江兼続が洪水防止と干ばつ防止を願い建立したと言われています。
石碑の大きさは、幅が約2.9m、奥行きが約1.6m、高さが約1.5m。風化のため、
石碑にある文字はほとんど見えなくなっていますが、“龍師火帝”の字が線刻されているのが確認出来ました。
龍師は雨風を司る水神であり、火帝は火の神を指しとの事です。

兼続は米沢のまちづくりとともに、暴れ川だった松川(最上川)の水害を防止するため、
総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防と蛇堤を築きました。それが、『直江石堤』と言われているもので、蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる“野面積(のずら)”と呼ばれる戦国時代の石垣造りの工法です。
約140メートルにわたって続いていますが、積み上げた石が蛇のウロコのように見えることから、
“蛇堤”と呼ばれるようになったそうです。
工事は下級武士を従えて、兼続自らが指揮をとったといわれています。建設機械などなかった時代に行われたこの工事は、
治水の大切さを今に伝えている気がします。

直江石堤を後にして、米沢市中心地に戻る途中、昔ながらの家並みがありました。
直江兼続が引き連れた下級武士が住んでいた地区で、古い建物に目をひくのはもちろん、
どの家にも『うこぎの生垣(いけがき)』がありました。うこぎは、ウコギ科の植物で、
米沢地方では古くから食用を兼ねた垣根として利用されています。春から初夏にかけての新芽が美味しく、
切り和えやおひたし、天ぷらなど様々な料理法で頂く事が出来ます。
また、枝にトゲのある品種は屋敷の防御のために活用されてきたと言われています。
その歴史は直江兼続の時代からとされています。

最後に訪れたのは、宮坂考古館です。ここは、故・宮坂善助前館長が80余年の生涯をかけて蒐集した
約700余点の貴重な資料を収蔵しています。その大部分は米沢・置賜地方の考古、歴史、民俗資料です。
上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、前田慶次所用の具足の他、
火縄銃、槍、屏風など米沢藩関係の重要文化財が数多く含まれています。写真は宮坂考古館理事長の宮坂直樹さん。

今回お世話になった“おしょうしなガイド”の登坂精一さん(写真左)。“おしょうしな”は米沢弁で、“ありがとう”の意味で、
米沢では当たり前のように使われています。登坂さんはとても親切に分かりやすく、
直江兼続ゆかりの地を案内してくださいました。なんと!牛嶋の小学校の先輩という事も判明!これも何かの縁でしょうか。
そして写真右は、1日中取材に付き合って頂いた(財)米沢観光物産協会の青木一成さん。
牛嶋の中学時代の友人の事をよく知っていたり、取材中は米沢話で盛り上がりました。

米沢を離れて約15年。小学校1年から10年間過ごした思い出の地だけに、今回はとても楽しい取材になりました。
懐かしい場所、そして、初めて訪れる場所などいろいろありましたが、素晴らしい場所に住んでいたんだなぁ〜と、
今さらながらに感激しました。
2009年のNHK大河ドラマは米沢ゆかりの直江兼続が主人公で、米沢には全国からたくさんの観光客が訪れる事でしょう。
歴史ある街として知られていますが、大河ドラマをきっかけにより多くの方に米沢を知って欲しいと思った次第です。
そして、何よりも直江兼続について理解を深めて欲しいです。
今回は大河ドラマのスタートより2ケ月も早く現地を訪れましたが、今のうちに現地を訪れて予習し、
大河ドラマが始まったらまた改めて訪れてみるのはいかがでしょうか?牛嶋もそうします。

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